なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか

“為何台灣能夠成功防止了新冠病毒”一書中,
雖然寫的大部份內容國人都已經知道,
比如說是因為不相信WHO跟中國,
以及政府的高官是專家擔任等,
不過這裡有一段日本跟台灣的歷史,
想要擷出來分享給大家^^

台灣這美麗寶島其實在400年前一點都不美麗,
反而是充滿瘴氣跟病毒,
被日本等其它國家稱為是”瘴癘(しょうれい)の島”。

中國本土這幾百年來也一直說
台灣是個”十去六死三留一回”的地方,
也就是說十個人去,六個人會死亡,,
三個人會因傷病被迫留下來,只有一個人能安全回來。
更有傳聞說鄭成功當年39歲就死亡的原因,
就是因為來台灣染上傷寒才英年早逝。

但是台灣自從被日本人統治後,
日本那邊就派一位後藤醫生過來,
依照台灣的風土跟生物習性,
因地制宜防疫方法以及大力改善了台灣的環境,
才讓台灣成為了大家眼裡的美麗寶島。
(大感謝後藤新平醫生)

以下內容擷取自該醫生的WIKI介紹

「生物学の原則」に則った台湾統治[編集]

内務省衛生局員時代に局次長として上司だった陸軍省医務局長兼大本営野戦衛生長官の石黒忠悳が、陸軍次官兼軍務局長児玉源太郎に後藤を推薦したことによって、明治28年(1895年)4月1日、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰し、広島宇品港似島似島検疫所)で検疫業務に従事して、その行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫部長として上司だった児玉の目にとまる。

明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である民政局長(1898年6月20日に民政長官)とした。そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。こういった手法を後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」という思想だった。


如果想要知道日本人是怎麼看待台灣防疫的粉絲們,
或許可以買本回去參考一下喔︿︿


FACEBOOK